脳を働かせる手書きの効用
最近、大学で講義をしていると、ノートを取らないばかりか、ノートすら用意して来ない学生を見かけることが増えました。スマホで板書を撮影する学生もいて、便利になった反面、書字や理解の力、要点を把握する力などの言語能力が失われていくことを危惧しています。
「手書きでメモをとる」という行為は、単に文字として記録するだけでなく、見たり聞いたりした情報を自分なりに解釈し、組み立て直すといった脳の働きを伴います。そうした過程を経ることで、内容をより深く理解し、記憶にとどめやすくなるのです。
パソコンを使ったほうが、素早く正確に記録できると思う人もいるかもしれません。しかし、タイピングでは受け取った情報をそのまま文字にしてしまいがちで、脳を働かせる余地がありません。最近のわれわれの研究で、タイピングより手書きでメモを取ったほうが内容の理解や記憶の定着に有効であることを明らかにしました。
手書きの文字には、たくさんの情報が詰まっている
メモに限らず、日常の中に手書きの時間を取り入れることで、より心豊かな暮らしを送ることができるでしょう。
日記を書くと、その日のできごとを改めて振り返ったり、整理したりする機会になります。また、筆跡には心の状態が表れるため、後で読み返したときに「あの日はあんなことがあったな」「こんな気分で書いたな」と、書き留めていない感情や心の機微まで思い出すことができるものです。最近はスマートフォンやパソコンで日記を書く人も増えていますが、手書きの文字には印字された無機質な文字よりも、たくさんの情報が詰まっているのです。
自分の心が動かされた文章を書き写してみるのもおすすめです。例えば、印象に残った小説や映画のセリフをノートに丁寧に書き写してみる。すると、最初に目にしたときには気づかなかった文章の意味や、セリフのやり取りの面白さなどに目を向けることができ、新たな発見につながることがあります。「言葉を繰り返し味わう」という体験は、満足感や充実感をもたらしてくれます。
これからの季節、手書きでクリスマスカードや年賀状を作成するのも良いでしょう。メールのように気軽に修正できないからこそ、頭の中で相手のことを思いながら言葉を吟味し、丁寧に書こうとします。そうした手間暇や心遣いは相手にも伝わりますし、筆跡やどこに何を書いたかといったことから、「その人らしさ」を感じ取ることもできます。心のこもったメッセージカードは大切にとっておいて、折々に見返すことができます。気の利いた一言をきっかけに、旧交を温めることもあるでしょう。
愛着を持てる文具を見つけよう
手書きをすることが、義務になったり、苦痛に感じては意味がありません。そこで大切なのは、筆記用具や紙などの道具にこだわることです。私は万年筆を愛用していて、たくさん持っているのですが、用途や気分によって使い分けています。それぞれペンの書き味やデザイン、インクの色や質感が異なるので、「これを書くならこのペンを使おう」と考えたり、インクを入れたり手入れしたりする時間も楽しく感じます。そうした準備段階から思考を整理したり表現方法を考えたりできます。昔の人が墨をすっていた時間も、同じような役割があったのではないでしょうか。
私は新しい万年筆を手に入れるたびに、「どのインクを入れて何を書こうかな」と考えるだけで、旅の準備のような楽しさを感じます。最近は文具店も減ってきていますが、ぜひ実際に手に取ってお気に入りの文具を見つけてほしいと思います。紙も同様で、ノートなのか手帳なのか、大きさや質感などを考えながら選ぶことで、あとで何をどこに書いたかが思い出しやすくなります。
「タイパ」や「コスパ」が叫ばれる時代では、手書きは効率が悪く感じられるかもしれません。しかし、せわしない日常の中で立ち止まり、手書きを通して自分と向き合いながら、誰かのことを思いやったり、自分の琴線に触れた情報をじっくりと味わって価値を見出したりすることは、心を豊かにする大切な時間だと思います。まずは愛着の持てる文具を探すことから始めてみてはいかがでしょうか。
お話を聞いたのは●酒井 邦嘉さん
さかい・くによし/東京大学大学院総合文化研究科教授、言語脳科学者。東京大学医学部助手、ハーバード大学リサーチフェロー、マサチューセッツ工科大学客員研究員、東京大学大学院総合文化研究科准教授等を経て、2012年より現職。著書に『言語の脳科学』(中公新書)、『デジタル脳クライシス―AI時代をどう生きるか』(朝日新書)など。
https://www.sakai-lab.jp/
- 本記事の内容は2025年12月掲載時の情報となります。情報が更新される場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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