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わが家のルーツが分かる!?「日本人の名字」をたどる魅力

例えば「山崎」という名字は東日本では「やまざき」、西日本では「やまさき」と読むことが一般的ですが、このように普段、何気なく名乗っている「名字」の発祥をたどることで、家族のルーツがわかるかもしれません。姓氏研究家の第一人者である森岡浩さんは、10万以上ある「名字」にまつわる謎を解き明かそうとしています。

名字のルーツを探るカギは「分布」にあり

私が初めて名字に興味を持ったのは中学時代でした。先生が生徒の名字だけで、「お前は○○村だな」とわかってしまうのが不思議で、自分で電話帳を調べたことがきっかけです。村ごとに同じ名字がズラリと並んでいて、これは面白いなと。郷土史を調べると、昔から同じ名字の人がいて、歴史的な裏付けがあって同じ名字が多いんだとわかりました。大学に進んだ頃から、まったく独学で本格的に名字を研究するようになったのです。
 
当初はひたすら文献を調べましたが、史料でわかるのは武家とか神官など地位の高い人たちばかり。人口の9割を占める庶民の実態は見えてきませんでした。そこで、途中からは民俗学的な手法に切り替えました。地方によって名字の分布がまったく異なることに着目してからは、分布こそが名字のルーツを探る鍵を握ると確信しました。
 
ある地域に特定の名字が多いのは、有名な一族が存在したとか、特別な地形に由来するとか、必ず理由があります。分布から歴史的背景を探ることで、名字の発祥が見えてくるのです。

以前は電話帳が役立ちましたが、現在の電話帳はペラペラです。そこで、90年代後半頃のまだ分厚かった電話帳を保存していて、現在も活用しています。実は名字の分布データとしては、大都市のベッドタウンを除けば、当時と現在であまり変わっていないのです。
 
近年は個人情報の保護が進み、名字の研究が困難になった半面、インターネットの恩恵があります。かつては地方の図書館に行かないと入手できなかった貴重な資料がネットで読めることも多いですからね。
 
この研究の醍醐味は、まったく異なる場所に存在する名字同士がつながる瞬間です。例えば、高知が発祥の「香宗我部(こうそかべ)」という名字が宮城県にもあって、無関係とは考えにくいと思って文献を調べていくと、土佐出身の武士が伊達藩に存在していた記録が見つかったのです。そんな発見があったときはとてもワクワクしますね。
 
今、最も力を入れているのは「読み方」の研究です。たとえば「○谷」だと、東日本では「や」で西は「たに」と読むのが基本。ところがその境界が難しく、大谷は東京でも「おおたに」で、北関東で「おおや」になります。松谷になると、北関東まで「まつたに」で、東北の途中から「まつや」になるのです。山崎の場合は、東日本では「やまざき」で西は「やまさき」。関西では両方が混交していますが、中国・四国は「やまさき」。上村だと「うえむら」と「かみむら」の境界とか、掘り下げていくと本当に面白いです。
 
10万以上ある名字のなかには、ルーツがまったくわからないものも多いんです。研究者が少ないから調べきれないのですが、ひとつでも多くの名字を解明したいと思っています。

そもそも、なぜ「名字」が生まれたのか

古代のヤマト王権は中央集権国家ではなく、大王家(のちの天皇家)を中心とする氏族たちの連合政権でした。各氏族にはそれぞれ専門の仕事があり、たとえば「中臣氏」は祭祀に関すること、「物部氏」は軍事関係といった具合に担当する職務が氏族ごとに決められ、大王家はそんな氏族たちのリーダーといった立場で政権を運営していたのです。
 
王権内では、連合政権に参加した各氏族を「氏(うじ)」と呼んで管理しました。祭祀を関係する氏族は必ず中臣氏を名乗り、その氏族の構成員は一族の長だけでなく、所属する人はみな「中臣」を名乗ったのです。そうすれば、「中臣の○○」という名前だけで、祭祀関係に携わる人だと誰もが知ることができました。
 
やがて天皇家を中心とする中央集権国家が成立しました。天皇家は各氏族の長というよりは、より別格の存在となったのです。天皇家は各氏族に「姓(かばね)」を与えました。自らの臣下であることを示す「かばね」を与えることで、天皇の地位はより明確になったのです。「かばね」は、当初は豪族の称号に近いものでしたが、次第に氏族の地位を示すようになりました。
 
やがて天皇家は、分家した一族に「姓(せい)」を与えて臣下とし、各氏族と同列に置きました。この頃には姓(かばね)は名ばかりのものとなり、「氏」という概念もなくなって「姓(せい)」に統合されていったのです。天皇家は「氏」も「姓」も名乗らずに現代に至っています。姓(せい)は、原則として変更できません。姓を変更したい場合は、天皇の許可が必要でした。だから「姓」を知れば、その一族のルーツは一目瞭然でした。

平安時代になると、朝廷の役職は「源平藤橘」といわれた4つの氏族が占めました。4つの氏族=源氏・平氏・藤原氏・橘氏のなかでも、藤原氏は朝廷内で圧倒的な力を持ち、重要な役職を独占しました。こうなると、藤原という「姓(せい)」だけでは区別がつきません。   そこで、藤原氏の公家たちは自分の屋敷のある土地の名前をとって、「一条」や「九条」などの「家号(やごう)」を使って区別をするようになりました。平安時代の後期には、地方で武士が誕生します。武士たちも、自分の支配する地域の地名を「名字」として名乗ったのです。この「家号」と「名字」はやがて「名字」に統合されます。そして、「姓」とは違って自分の意思で自由につけられるものとして、室町時代には農民階層にまで「名字」が広がっていったのです。

名字ランキング1位:「佐藤」のルーツ

「佐藤」のルーツには諸説ありますが、有力なのは藤原秀郷の子孫・公清が左衛門尉(さえもんのじょう)という役職に任ぜられて「左衛門尉の藤原」ということで、佐藤(左藤)を名乗ったというもの。

下野国佐野(現・栃木県佐野市)に居住した「佐野の藤原」で佐藤になったという説もあります。いずれにしても、関東の藤原一族が起源と思われます。東北地方には特に多く、青森県以外のすべての県で1位となっています。

佐藤がメジャーになった裏には意外な事情もあります。実は大物になりすぎなかったことなのです。徳川などのビッグネームになると、本家に対して恐れ多くて使いにくくなります。大名クラスでも同様で、皮肉なことに「佐藤」という大物大名が現れなかったことで増加したという一因もあります。

名字ランキング2位:「鈴木」のルーツ

「鈴木」は、紀伊半島の熊野地方が発祥です。この地方に根付いた熊野信仰の布教に携わる一族が名乗った名字といわれます。

熊野地方では刈り取った後の稲わらを「ススキ」と呼び、その当て字で「スズキ=鈴木」になりました。彼らの祖先で、大和国の穂積郷(現・奈良県天理市)に住んだ一族が神武天皇に稲を献上し、穂積(ほづみ)という姓を賜ったといわれます。穂を積んだススキが変化して、鈴木になったのでしょう。

熊野信仰は布教先に土着する傾向があるため、紀伊半島を拠点にして東国へと広がった鈴木姓は東海、関東や東北方面に広く分布しました。その半面、西日本では鈴木は多くありません。三重県以東で鈴木がベスト10圏外なのは青森県などわずかですが、西日本ではすべてベスト10圏外なのです。

名字ランキング3位:「高橋」のルーツ

「高橋」は、文字通り「高い橋」がある場所という意味で名づけられた地名姓です。江戸時代までは橋がある場所は非常に珍しかったため、橋本や大橋といった橋のつく名字が多く生まれました。高橋姓の発祥として有力とされるのが、現在の奈良県にあたる、大和国布留(ふる)の高橋という土地です。

ただし、歴史をひもとくと、古代豪族にも高橋氏が存在しており、大和朝廷で食膳係を担当した一族です。また、ほかに物部氏と同族で神に仕える役目を果たした高橋一族もいて、大和国添上郡には高橋神社もあります。戦国時代には、三河や伊予などに土着した高橋一族が住んだ「高橋郷」が見られました。そのため高橋は地名にも多く、そこからも多くの高橋さんが生まれたのです。

お話を聞いたのは●森岡浩さん(姓氏研究家)

もりおか・ひろし/1961年高知県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。日本人の姓氏研究を独学で行い、実証的な研究成果によって高く評価される。『名字でわかる あなたのルーツ』(小学館)ほか著書多数。