日本最大級の街開発プロジェクト
プロジェクトが立ち上げられたのは1960年代のこと。当時、『三菱地所』の社長を務めていた中田乙一は、過去に例のない、かつ全国的なモデルケースとなるような街づくりを考えていた。日本各地を回りながら候補地を探していた中田は、仙台にほど近い高台を訪れた際、遠くに見える山々を指差し、自身が考える開発規模を示した。
東西6km、南北3km、1000haを超えるその面積は、東京都千代田区の広さに匹敵する。無謀と思われても不思議ではない。しかし三菱地所のルーツには、草が伸び放題で荒れ地だった明治期の丸の内を、一大オフィス街へと変貌させた事実がある。中田をはじめとする経営陣にとっては、企業姿勢を象徴する実績であると同時に、夢を現実にした街づくりの前例でもあった。
マスタープランを策定するチームには、学生時代に都市計画や社会工学を学んだ若手社員が集められた。最終的に目指すのは5万人からなる街。同規模の都市の電話帳を集め商業施設の種類や軒数を調査したり、先行事例となる国内外の街を見て回るなどして、満たすべき条件を模索していった。そして「自然との共生」をメインテーマに、「住む」「働く」「憩う」「学ぶ・集う・楽しむ」という要素をそなえた街づくりが計画された。さらに、これらのテーマや要素を実現するためにひとつのキーワードが据えられた。「シビルライセンス」である。単に土地や住宅を分譲するのではなく、街に住むすべての人々が街づくりの主役となり、街全体を共有財産として育てていく絆を大切にするという考えだ。
今なお、民間が単独で手掛けた開発プロジェクトとして日本最大級の規模を誇る『泉パークタウン』。その真の価値は、住まう人々を中心に発展を続ける街そのものにある。
住民が育んでいった街の魅力。
1975年5月、最初の入居者として、木村輝久氏が泉パークタウンに引っ越してきた。場所は、第1期高森地区だ。
「3人の子どもを連れて家族で下見に来たのは、この年の3月。まだ建物がほとんどないところにちょうど雪が降り積もってしまい、白く覆われた景色に皆で驚いたことを覚えています」
もともと木村家が居を構えていたのは東京都調布市。出張で仙台に足を運ぶ機会が多かった木村氏は、自然豊かな土地柄に魅力を感じ「いずれ住んでみたい」という思いを抱いていた。そんな折、勤めていた会社が仙台営業所を設けることになり、自ら仙台行きを申し出たのだという。
「1975年末の世帯数は7軒です。徐々に入居者は増えましたが、コミュニティと呼べるものはありませんでした。そこで、2、3年してから、道路清掃や祭を始めようと声がけしたんです」
清掃や祭を通じて、数少ない住民同士がコミュニケーションを深めることが狙いであった。ところが、年月を経ていくうちに、木村氏の予想を超える効果が現れた。美しく住みやすい街づくりを、住民同士で育んでいく意識が芽生えたのである。事実、住民による清掃はその後に開発された地域の各町内会に広まり、祭も恒例行事として継続されている。開発のキーワードに据えた、街を共有財産とするシビルライセンスの考えは、早期に住民が主導する形で進められていったのである。
入居者が100世帯を超えた1977年、野村小学校から分離する形で高森小学校が開校した。翌年、井上胃腸科内科医院を開院した井上廉氏は、当時より高森小学校で校医を務めていた。
「子どもたちには、ちゃんと挨拶する習慣が根づいていましたね。元職員だった方からも、『高森小学校はよい学校だった』と聞いたことがあります。現在、公立私立含めて複数の教育機関がありますが、どの学校の子どもたちにもよい印象を抱いています。おそらく、子育てに向いた土地なんでしょう。環境面でいえば、緑が豊富であることのほかに、車がスピードを出しにくいようゆるやかなカーブを描く道路を配していることも大きい。この街は発展すべきは発展していって、維持されるべきは維持されているんですよ」
自ら高森に住みながら子どもたちの姿を見守ってきた井上氏の言葉には、環境の在り方にこだわった街づくりの意義が見て取れる。
価値を高めながら開発を継続。
第1期高森に続いて、第2期寺岡の販売が始まったのは1980年のこと。その後、1985年に第3期高森、1991年に第4期桂、1997年に第5期紫山と、各エリアは順次販売をスタートさせている。現在、『三菱地所レジデンス』の街開発事業部に所属する亀田正人は、2000年から6年間にわたって泉パークタウンで建売住宅の企画に関わってきた。手掛けた仕事のひとつに、新しい衣食住のライフスタイルを提案していたブランド、『アフタヌーンティー』とコラボレーションした建売住宅がある。
「東京から担当者の方々をお招きして、街を案内させてもらったんです。皆さん、美しく豊富な植栽や街の景観デザインに感動して、何度も『ああっ!』と声を上げていたことを記憶しています。その後プロデュースした物件を公開した際には、2週間で数百組以上のお客さまが見学にいらっしゃいました。街と住宅の価値が認められて、本当にうれしかったですね」
泉パークタウンでは、緑豊かな街並み演出を目的とした緑地協定や、周囲の景観と建物を調和させる地区計画などにより、街並み形成のルールを定めている。各地区ごとの特長を引き出しながら、より心地よく住める環境をつくるためだ。
亀田と同じ街開発事業部に所属する柴田純は、2004年から泉パークタウンの仕事に関わった。
「今は東京で再開発事業を担当していますが、泉パークタウンで学んだことは多いですね。特に、住宅は人が住んで初めて成立するという点。どんな場所であれ、街づくりは人を中心に考えるものだと改めて教えられました」
現在、三菱地所レジデンスでは10棟規模の戸建街から大規模なマンションまで幅広く手掛けている。それぞれの現場で人を中心に街をつくる考え方が生かされているのは、泉パークタウンで連綿と積み重ねられてきた、歴史と実績によるところも少なくないのである。
世帯数約9900、人口2万6000人を突破した泉パークタウン。開発は現在進行形であり、完成を迎えるのはまだ先だ。最初に入居した木村氏の「今の生活が楽しい。100年後も変わらないでほしい」という言葉に、目指すべき街づくりの有りようが集約されている。
最も歴史の新しい紫山地区の邸宅地。
紫山地区は、「丘から山の手」をイメージして造成されたエリア。自然林を生かした紫山公園を街の中央に配し、周囲を住宅が囲む設計となっている。
地区内は、街区によって景観演出が異なる。たとえば、ある街区では、都会的で明るめの舗装材を採用し、初春から夏にかけて花を咲かせるように街路樹を配置している。一方、別の街区では、自然色に近いアースカラーの舗装材を採用。また、植栽には紅葉する木々を用い、ほかの街区とは違った秋の景色を見せる。つまり、同じ地区でありながら、四季折々で街区の表情が変わるということだ。
さらに緑地協定や地区計画は、3地区(近隣サービス地区除く)に分類。各街区の景観を、住民の共有財産として育んでいくよう図られている。
メタセコイアの並木や広大な紫山公園はもちろんのこと、街区においても各住宅においても、心安らぐ環境が育まれている地区なのである。
庭園街区 紫山プライムステージ(宅地分譲)
街づくりを支える『パークタウンサービス』とは?
『パークタウンサービス』は、1975年の設立以来、泉パークタウンの街づくりをサポートしてきた。宅地・建売住宅の販売や賃貸物件の仲介といった不動産関連事業のほか、住宅のリフォームや外構工事、ガーデニングなどに対応している。さらに、国内外の旅行の手配、各種保険の代理店業務、フラワーショップといったサービス事業も担っている。
自由に出入りできる店舗には、接客窓口となるカウンターがあるエリアと、水廻りリフォームやインテリアのモデルを展示するエリアがある。
入居を考えている人にとっても、入居後の生活を豊かなものにしたい人にとっても、頼もしいサポート役となるはずだ。