三菱地所グループの歴史

1972年(昭和47年)6月「泉パークタウン」第1期起工
住民とともに、50年先100年先を見据えた街づくりに取り組む パート1
初めてづくしの宅地開発

「あの山からあの山まで」
その一言からすべてが始まった

東西約6km、南北約3km、東京都千代田区とほぼ同じ1,000haを超える土地に、5万人が暮らす街をつくる――1972年に第1期工事が始まった泉パークタウンは、民間単独の開発プロジェクトとしては、21世紀の現時点でもいまだ国内最大の規模を誇っている。

泉パークタウンが位置するのは、杜の都・仙台の中心部から北へ約10kmの地域。現在でこそ広大な住宅地が広がっているが、開発が決定した1969年当時は、標高約100mの緩やかな南傾斜の丘陵地。薪を取るための林や灌漑用のため池などが点在していた。

泉パークタウン全景(航空写真)

この地にひとつの街をつくり出す夢を描いたのは、当時、三菱地所社長を務めていた中田乙一。戦後復興に端を発し、1959年(昭和34年)に決定した丸の内総合改造計画がひと段落し、ビル事業をメインとした事業から、宅地開発も手がける総合デベロッパーへと事業領域の拡大を進めていた。開発に適した土地を求めて全国を駆け回っていた中田は、広大な土地を眼前にして、その意欲を強く抱いた。

泉パークタウン全景(開発前)

実は最初に開発を打診されたのは、泉パークタウンとは別の地域だった。隣接する高台から打診された場所を視察した中田は、「狭すぎる」と判断。そして、その地域のさらに奥に連なる山々を指さし、こう続けた。

「あの山からあの山までやらせてほしい」

それが今の泉パークタウンの場所だった。面積にして1,070ha、ほぼ東京都千代田区に匹敵する広さ。一般に宅地開発の規模は150haがひとつの目安とされている。それをはるかに上回る規模だった。

この時の中田の決断について、大学で都市計画を学び、若手社員として泉パークタウンの開発に携わった平生進一は語る。

「明治23年、岩崎彌之助は荒れた野原だった丸の内一帯を購入して、一大オフィス街をつくる夢を描き、それを現実のものとしました。中田をはじめ当時の経営陣もそれと同じように、緑の広大な丘陵地にかつてない規模の住宅地をつくりあげる夢を描いたのではないでしょうか。そして夢を描くだけでなく、現実のものにすることこそが、岩崎彌之助が明治時代に始めた丸の内開発から一世紀以上も連綿と続く当社の基本姿勢なのです」

都市計画の理想の追求

開発が決定し、現地では地権者との交渉が順調に進む一方、東京本社では開発のためのマスタープラン(基本計画)づくりが進められた。中心となったのは、新設されたばかりの住宅建築部・開発班。そこには学生時代に都市計画や社会工学を学んだ入社2、3年目の若手社員が集められていた。平生もそのメンバーのひとりだった。

「今思えば、泉パークタウンの開発のために、都市計画や社会工学を学んだ人材を入社させたのだと思います。社内にそんな人間はいなかったのですから。しかし、我々も都市計画を学んだといっても、現地があまりに広すぎて、何をどうしたらいいのか見当がつきませんでした。だからまずは、実際に国内外の先行事例を見て回って知見を深めるところから始めました。そして若手社員たちが大きなキャンバスに、理想のプランを描こうと、言ってみれば青臭い議論を繰り広げたのです。その様子を当時の上層部は、じっと我慢強く見守ってくれていました」

5万人が暮らす街をつくる――そんな経験やノウハウを持った者は社内にはいなかった。そこでメンバーたちは、日本全国の5万人規模の都市の電話帳を集め、5万人が暮らす街に、どんな店が、何軒あるのか、一つひとつ確認していった。そして、東西の長さが東京駅から新宿駅に匹敵する計画地をことあるごとに歩きまわった。

こうして1970年11月、泉パークタウン開発基本計画(マスタープラン)が策定された。それは「自然との共生」をテーマに「住む」「働く」「憩う」、さらに「学ぶ」「集う」「楽しむ」という要素がすべて揃った街をつくるというもの。仙台のベッドタウンとしての機能も担いつつ、同時に泉パークタウン自体が独立した機能を持った新しい都市となることをめざした。平生の言葉を借りれば、「都市計画のバイブルともいえるエベネザー・ハワードの主著『明日の田園都市』(訳:長素連、鹿島出版会)の実現」をめざした。

1971年当時のマスタープラン
中心部につくられた商業施設
同じく中心部にあるホテル

具体的には、

  • 住居だけではなく、住民の職場となる地区も設ける。
  • 里山すべてを開発するのではなく、調和の取れた自然との共生をめざす。
  • 街の中心部には、人々の憩いの場となる商業・文化・ホテルを集約したタウンセンターを設置する。
  • そのタウンセンターを取り囲むようにして、北側に働く場となるインダストリアルパーク(無公害都市型工業基地)を設置。そして、広大な緑地を挟んで、南側に住宅ゾーンを設け、6つの区画に分割。1区画の平均規模は120ha、人口約8,000人、住戸数2,200戸。総人口5万人規模を見込む。

という内容が盛り込まれた。「住宅地開発は150haが目安」と前述したが、泉パークタウンはそれが6つ集まった規模といえる。

民間最大規模の泉パークタウンの開発。そのマスタープランで特筆すべきは緑地への配慮だ。宮城県と「開発面積のうち30%を緑地として保全する」という協定を結んだこともあり、住宅ゾーンは開発面積の70%で計画されたが、実際に住宅を建てる土地は、さらにその半分にとどめた。そして残りは街路、公園・緑地、タウンセンター用地にあてられた。その結果、計画区域内には緑道や公園がふんだんに配置され、最終的に分譲対象となった土地は開発面積の約30%。民間の取り組みとしては異例のプランとなった。

いまだ色あせないマスタープラン

2015年に更新されたマスタープラン

開発が始まってから40数年。今も泉パークタウンの開発は継続されているが、驚くべきことに、現時点においても当初たてたマスタープランから大きな変更はない。自身も泉パークタウンに居を構え、タウン内のメンテナンスや住民サービスを提供する泉パークタウンサービスの社長を務めたこともある藤岡雄二は語る。

「住宅地とビジネスゾーンを遮断するための緑地、商業エリアの配置といった土地利用の大きな視点から、住宅地内ではT字型の交差点にして事故を防止するといった道路設計、電柱の地下埋設、デザイン性に富むオリジナルの標識の設置など、毎日の暮らしに密接に関わる部分まで、このマスタープランは住みやすさをとことん追求しています。街が成熟度を増していくほどに、きわめて優れた先見性を持ったプランであることを実感しています」